元々は両親、2つ上の兄、5つ下の弟の5人家族。
母はのんびりおっとりした優しい人。父は仕事では真面目だけど、家に帰って来てからはたくさん遊んでくれる人。きょうだい3人仲良くて、まあまあ普通の家族だった。
私が中3の夏、父が仕事を辞めた。父は決めたらとことんするタイプ。
辞める前から、異動してきた上司とウマが合わず、父が前の上司とずっと前から計画していたことは何もさせてもらえない状況になったという話を聞いていた。
だから突発的にカッとなって意地になって辞めたようなもんだと思っていた。
またすぐに新しい職場を探すと思っていた。だけど父は何ヶ月経っても求職せず、パチや競馬場に通い詰めていた。母や兄が職安に行くよう言うと無視をする。
私達が思っていた以上に意地になっているんだ、でもそのうち次の職を探すだろう、今ぐらい休ませてあげようと私は思っていた。
母1人のパート代で5人が生活するという状況。どんどん両親の会話は無くなり、父が帰宅すると母は不機嫌な表情。
兄も苛立ちから父の顔を見ると舌打ちをする。弟は母や兄の様子を見て、一緒になって父を悪者扱い。
私は父がなぜ仕事をしないのか疑問を抱きながらも、自分の高校受験のことで頭がいっぱいで特に何も考えていなかった。
その年の冬、試験期間であった私はお昼前に帰宅する。近所に住む幼馴染と、母が置いてくれているお昼ご飯を予想しながら帰っていた。
平日のお昼前、いつもなら父はパチへ出かけているため車はない。
ところがこの日は父の車が駐車場にあった。
今日はまだ眠ってるのか、午後から行くのかなと思いながら玄関を開けた。
家に入ると、物音はしない。ああ、眠ってるんだ。と思った。
父が亡くなっていた。一瞬何が起きてるのか分からなかった。お父さんなにしてるの?声に出して言った。当然返事は無くて、すぐに救急車を呼んだ。
なぜかすごく落ち着いて丁寧に話せていた気がする。
そのあと母、兄へ電話するとお昼休憩や休み時間だったのですぐに繋がり、母はすぐに帰ってきた。兄は数時間後に帰ってきた。
救急車は5分程で来た。その時点でまだ母は帰宅しておらず、救急隊員は中3の子ども相手に気まずそうに、「警察の人も呼ぶね」と言った。
私は、お父さは目覚めないんだと分かった。
救急隊員は気を使って学校のことなど、世間話を振ってくれた。聞かれたことだけ答えている間に母が帰宅し、混乱状態。
警察の車に乗せられ、改めて自ら亡くなったに間違いないと言われた。
母は泣きじゃくって疲れてぼーっとしていた。兄と弟はワンワン泣いていた。私は2人の背中を無言でさすっていた。我慢しているわけでもないのに涙が出なかった。
他の3人に「もう仕方ないよ。お父さんが1番辛くて悩んでたんだよ。誰も悪くないよ」とか必死になぐさめようとしていた。
母の立ち直りは意外と早く、父の他界から2週間後にはパート復帰した。私や兄、弟もなんとか学校へ通っていた。
無事に高校受験も終わり、少しずつ以前のような和気あいあいとした雰囲気が家族に戻ってきた。
高2の夏、兄が亡くなった。バイク事故だった。
兄が亡くなってからしばらくの間、私は家であまり眠れなくなった。
私が目を離した隙に2人が亡くなるかもしれない、突然呼吸が止まるかもしれないという不安があった。
母と弟が家にいると、2人が起きていても眠っていてもそういったことが不安で、うたた寝程度しかできなかった。
でもなぜか学校へ行くと、不安はあるものの思う存分眠ることができた。だから早めに登校して朝の会まで眠ってた。授業中も、バレない体勢でよく眠ってた。
周りの友達がバレないように協力してくれたことにとても感謝している。
高3になる頃には睡眠リズムは安定していた。家でもよく眠れるようになり、学校で眠る時間が無くなった分、クラスメートとの関わりも増えてすごく楽しかった。
弟は中学生になり、難しい思春期に突入。母や私に反抗するようになってきた。父の他界について考えるようになっていた。
母が買い物に行っている間、私が自室にいると、リビングで父が撮った映像を観ながら泣いていることもあった。
私は就職するか進学するか悩んでいた。経済面を考えれば就職することが現実的だった。
でも私は幼い頃から憧れの保育士にどうしてもなりたかった。
母へ相談したら、進学を勧められることは分かりきっていたので、あえて弟に相談した。
まだ中1の弟に面白半分で相談してみたが、弟は真剣な表情で、「迷ってるってことは保育士なりたいってことだよ。お金のことは後からなんとかなるでしょ。
お母さんのパート代だけでここまで育ったし。」と言った。弟の成長に感動した。
私は奨学金を借りて短大へ進むことに決めた。推薦の基準をクリアしていて簡単に入れて、入学金も免除でラッキーだった。
放課後や休日はバイトに時間を費やしたくさん貯金した。
短大生活も充実していた。成績上位者の学費半額免除枠もゲットし、母も弟もすごく喜んでくれた。
弟の中二病はそれほど酷くなかった。コーヒーはアメリカンというこだわりを持ち始めたぐらいだった。
短大2年生の夏、就職先が決まった。嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
すぐに内定通知書を仏壇に置いて、初めてお線香をあげた。
実はそれまでもそれからもお線香をあげれていない。お線香をあげる=他界を認める だった。
私はまだまだ2人の他界を受け止めきれていない。でもその時はどうしてもその喜びを伝えたくて、お線香10本ぐらいあげた。
お母さんにあげすぎって怒られた。けど私のその姿を見てお母さんは嬉しかったみたい。涙目になってた。
私は就職を機に1人暮らしを始めようと考えていた。母と弟も賛成してくれた。
職場からすぐ近く実家から1時間程の場所へ、バイト先の知り合いをツテに物件を探してもらっていた。
弟は受験生。受験を控え、ピリピリとしながらも中学生特有の難しさは無くなり、落ち着いてきていた。
母も時々父や兄を思い出し、涙することもあるが徐々に昔のような能天気な母に戻ってきていた。天然が炸裂してこっちがイライラするほど。
弟の卒業式の日は私はもう春休み。バイトはシフトを外してもらい、母と一緒に参加した。
名前を呼ばれ、しっかりとした声で返事する弟を見て、逞しくなったなあと思いながらビデオを構えていた。
退場の時、目が合って照れ臭そうに笑っていた。教室での最後のホームルームでは一人ひとりスピーチがあった。みんな親へ感謝の言葉を言っていた。
当然、弟は母と私へ言葉をくれるのかと思っていたが違った。
「お父さん、お兄ちゃんありがとう。3年間楽しかったw2人からたくさんのことを学んで、メンタル強くなりました。悩んだ時に2人を思い出すと、悩みの小ささを実感して、頑張ろうって思えたよ。お母さんと姉ちゃんにはこれからもすがる予定なので特に何も言いません。」みたいな感じだった。
これはちょっと寂しかったな。
翌日には弟の合格発表があって、無事志望校合格。
嬉しくて嬉しくて、その翌日には3人でお墓参りに行った。
私はお墓参りもやっぱり嫌で、霊園を散歩してた。帰りに弟が大好きなオムライスを食べに行った。
翌朝、母がお腹が痛いと言い出した。動けないほどではないらしいが、倦怠感もあり、排便しても変わらないとのこと。
話を聞くと、ここ数週間の間、食欲もあまりないと言う。思い返すと前日のオムライスもほとんど残して弟にあげていた。元々少食のため自宅ではあまり食べないが、外食では残すことはなかったのに。
普段、風邪や頭痛の時でも母はそのことを口に出さない。
そんな母が自分から腹痛を訴えるのはよっぽどだなと思い、病院へ連れて行った。検査入院が必要だと言われた。
この時で3月半ば。一人暮らしの準備でマンションも契約していたが、事情を話して破棄してもらった。
知り合いのツテと言うことで、無料でキープしておいてくれるとのことで、これまたラッキーだった。
母の検査入院の間は、私は勤める予定の保育園で研修、弟は同級生と遊んでいた。
私は何事も無いことを祈りながらも母の他界を覚悟していた。あんなに痛がってしんどそうにしている母を見るのは初めてだったから。
帰宅すると、弟と2人。弟もある程度察しながらも普段通りを装っていたように思う。
検査結果が出たのでとのことで病院へ呼び出された。
私は当時20歳であったが、童顔なためか、医者から気まずそうに「できれば成人の方が良いのですが…」と言われた。
母は末期ガンだった。聞いても驚かなかった。「ですよね」って返事した気がする。
この報告を聞いて真っ先に浮かんだのは、母の他界ではなくて弟の将来だった。
弟はもうすぐやっと高校生になる。私はもうすぐ就職で生活がガラッと変わる。親戚はたくさんいるけどみんな遠くに住んでいる。
みんな良い人達で金銭面は父の他界から後よくしてくれているが、直接的な助けは受けにくい。
色々なことを一気に考えた。母が他界したと仮定してたくさん考えた。
今思えばその時にそんなこと考えなくても…と思うくらい。
もし2人で暮らすとして、弟は未成年。
児童相談所が絡むこともあるのか?そうなれば施設入所?もしくは遠くの親戚に預けられ、弟と離れ離れに?せっかく努力して合格したのに転校の可能性も?など。
余命はよくて数ヶ月でしょう。と言われた。お母様やご兄弟にはお伝えしますか?と聞かれた。
母はこの時まだ結果を知らされていなかったが、おそらく予感しているだろうと思った。
知らない状態で病気が進行する方が怖いだろう、母にはすぐ伝えたいと思った。弟へどうするか悩んだ。
弟は、父を兄の2人の他界を乗り越えてきた。
もうすぐ高校生で、大人と同じように物事を考え受け入れる力は十分備わっている子である。
でも今このタイミングでそんなマイナスな報告をするのはどうなのか。
新しい生活を楽しみにしている様子は、今まで見向きもしなかった学園ドラマを夜な夜な1人で見始めた姿からよく分かる。
その気持ちのまま、高校生活をスタートさせてあげたい。そう思った。
弟には末期ガンで余命数ヶ月であることは伝えないことにした。
初期のすい臓がんで治療すればよくなると伝えた。担当の医者や看護師もそう合わせてくれた。後から聞いた話、母と同じ病室の患者さんも合わせてくれていたみたい。
その後…
翌日、職場の園長と主任に事情を説明した。泣いていた。
すぐに他の先輩職員や同期にもそのことを話してくれた。
私はまだ新入りで、関係を築けていないのに「〇〇さんが良い子ってことがよく分かった!いっぱい手伝うよ!」「悩みのはけ口にして!」と声をかけてくれた。
弟は中学時代に引き続き、高校でもバスケ部に入りたいと言っていた。それなりの強豪校ということも志望した理由の1つ。それもあって、転校は絶対にさせたくないと思っていた。
そのことも職場の人たちに話すと、「強豪のバスケ部ならきっと朝練がある弟くんを起こして見送らせてあげたい早出出勤になると、きっと〇〇さんの方が早く出るから、弟くんを送り出せないよねよし、〇〇さんは早出出勤無しで!」みたいな感じですぐに勤務形態まで考えてくれた。
弟は私たちがついている嘘を信じて毎日楽しそうに高校へ通った。
部活ももちろんバスケ部に入り、先輩達の予想通り朝練があった。
母は日に日に弱っていった。薬は治療というより緩和が中心。弟には副作用で一時的に弱っていると伝えていた。
5月の半ば、私は職場の人間関係に恵まれ、母の弱っていく姿に苦しさがあるものの、仕事は充実しており楽しさを感じていた。
弟には彼女ができた。バスケ部のマネージャーで、可愛らしい子。
父の他界について、身内以外のほとんどの人には母も私も弟も心筋梗塞で亡くなったと伝えていた。みんながみんな理解してくれるとは思わなかったから。
でも弟は彼女に本当のことを伝えていた。それほど信頼している。なんでもありのまま話せる相手だと嬉しそうに言ってた。
仕事帰りにちょうど弟の高校を通る。なっちゃん(弟の彼女)が私に会いたがっているとのことで、何度か高校の近くで3人でおしゃべりした。
ある時なっちゃんが、「次は弟くんのお母さんにも会ってみたい。いつか一緒にお見舞い行けたら嬉しい。どんな病気なの?」と聞いた。
弟は、母が入院していると伝えていたが、病名は言ってなかったよう。
「すい臓がんだよ。末期の。」と弟が答えた。「そうなんだあ…」と気まずそうに下を向くなっちゃん。
なんで末期って知ってるの!?私も気まずかった。
私は先に帰宅して混乱。思い返してみても絶対に末期って言ってない。あたふたしていると弟が帰ってきた。
私と目が合うとすぐに「やっぱ末期だよね?w」と笑った。なんで末期って分かったのか尋ねた。
入院し始めて約3ヶ月。はじめは本当にいつか良くなると信じてた。
薬の副作用で苦しんでいるけど徐々に良くなると信じてた。でも様子は変わらないどころか、むしろ弱っていってる。これはおかしいと思って自分なりに膵臓癌について調べてみた。
ネットにある末期の症状や治療方法と同じように感じた。
点滴や母が飲んでいる薬の名前も調べると緩和の文字が出てきた。もう末期ガンで間違いないだろうと思った。
とのこと。
弟は淡々と話しながらも涙目。私は隠していたことをひたすら謝った。
弟は、そりゃあ先に教えてほしかった。でも姉ちゃんの性格からして教えるわけないよなって思う。
おかんは面白がってその提案に乗ったバカだなと思うし、他の人もみんなきっと良い人だから合わせてくれてたんだろ。
俺のこと考えてそうしてくれてたんなら俺は何も言えないよ。
嘘はつかれるよりつく方が大変だし、姉ちゃんよくできたなと思うよwおつw
って言って部屋に行った。
翌朝、昨日はああ言ったけどさ、俺のことなめすぎじゃない?ある程度の覚悟はちゃんとできる。
姉ちゃんからしたら弟だけど、一般的に見たらただの男だよ。ただの男に中途半端な嘘はダメだよ
説教された
母や医者にも弟にバレたことを伝えた。休日、なっちゃんも一緒に見舞いへ来てくれた。母と意気投合し、楽しそうに過ごしていた。
なっちゃんは本当に良い子。弟の3人目の彼女だけど、1人目と2人目のことを思い出せなくなるくらい見た目も中身も可愛い。
夏になり、母は1人で上体を起こすこともできなくなった。仕事を早めに上がらせてもらって面会に行くことが続いていた。
弟も夕方の練習を休んで面会に来ることが増えていた。私はこの頃、眠れない日が続いていた。
そろそろ母が他界するんだろうなと思っていた。覚悟はできている、って思っていたけど実際は怖くて仕方ない。
夏休みになってからは、弟は部活が休みの日は一日中母と話していた。
8月のある日、私は仕事、弟は朝から晩まで面会の予定だった。
お昼過ぎに弟から職場へ連絡があった。ちょうど子どもたちのお昼寝の時間で寝かしつけている所だった。
慌てた表情で部屋に来た主任の表情で母が亡くなったってすぐに分かった。
着替えたり、病院へ行く準備をしてる間に主任がタクシー呼んでくれていた。
手を握って「いってらっしゃい」って言ってくれたその優しさに泣きそうになった。
タクシーの中でずっと手が震えてた。覚悟してたから淡々としていられるはずだったんだけど、無理だった。めちゃくちゃ怖かった。
病院着いて、まず母に会いに行った。すごく綺麗な顔。だけど怖くて触れなかった。
落ち着いてからまた来ようと思って、病室へ行った。弟がワンワン泣いていた。
よく見たら弟が手にノート持ってて、開いてるページが涙でびしょびしょ。
背中をさすりながらノート取ってよく見てみたら、「〇〇くん、生まれ変わったらお母さんと結婚しようね」って書いてあった。他のページにもメッセージがたくさんあった。
たぶん思いつきというか、文章にするつもりなくその時頭に浮かんだメッセージを書いたのか、短文のものが何ページにもあった。
お母さん天然な人だったから面白いのもあったけど書いてることが思い出深いものばっかりで、ページめくるたびに弟は声をあげて泣いた。
引き出しの中に私へのノートもあった。1ページ目は長文で、「〇〇ちゃん。弟くんが生まれるまで泣き虫でわがままだったね。
でも弟くんが生まれてから急にしっかり者のお姉ちゃんになって、お母さんは困惑しました。
あんなに泣き虫だったのに、お父さんのお葬式以来もう何年も泣いていないこと、お母さん知っています。
たまには泣くのも悪くないよ。たまには泣かないと婚期逃すよ。いつも頑張ってる〇〇ちゃんの涙はみんな受け止めてくれるよ」って感じで。
泣きそうになったけど弟の前で泣きたくなかったから我慢した。
たぶん涙目なってただろうけど。
その日の夜には遠くに住んでる親戚がたくさん来た。
みんな私や弟のことを褒めてくれた。2人とも偉い!立派に育ってる!って声掛けてくれて、かわいそうって言われるよりもそうして実際の頑張りを認めてもらえて私も弟も嬉しかった
しばらくの間、祖父母や叔父叔母が実家や宿泊施設に泊まり、手続きなど色々と手伝ってくれた。
年に数回しか会わない人たちだけど、私達のことを真剣に考えてくれていることがよく分かった。
必要があればすぐにまた来るし、なんなら引っ越して一緒に住んでもいい!とまで言ってくれていた。
正直そこまで思ってくれているとは思わなくてすごく嬉しかった。何かあったらすぐ頼れると思うと安心した。
仕事は規定より長めに休みもらった。それから弟が高1の間は特に何事もなく過ぎていった。
弟の高校とは母の病気が分かった時からこまめに連絡取ってたので、色々と理解してくれていた。なっちゃんも相変わらず可愛い。
社会人2年目になると、仕事は慣れ、生活も落ち着いてきた。
弟は高校2年生。進路を悩み始めていた。
就職か進学か。理由はやっぱり金銭面。
私の貯金がそれなりにあったことや、親戚一同が少しずつ出し合って弟の進学を手伝ってくれると言ってくれたことからたくさん話し合って、親戚に甘えることにした。
高校3年生になると、勉強での疲れや苛立ちを私にぶつけてくるようになってきた。
なっちゃんと喧嘩している期間は、特に。
おふろの温度が熱すぎる、肉より魚の気分だった、俺の隣でアイス食うな、チー鱈を食うな、朝ドラ観るな
今まで言わなかったちょっとしたことをたくさん言ってくるようになった。
さすがに理不尽なことを言われると私も怒ることもあった。
そんなこんなで秋には志望校A判定になり、弟の気持ちにも少しの余裕ができたみたいでちょっとしたことで怒らなくなった。
なっちゃんは私の卒業した短大志望で保育士を目指すとのことで私は嬉しくてたまらなかった。
弟はなんとか志望校合格。弟は泣いて喜んだ。
私は「みんなにお金出してもらうんだし当たり前だね」ってめちゃくちゃ冷たいこと言った。
素直におめでとうって言ってあげれば良かったなと思う。
卒業式は有給を取って出席した。中学の卒業式と同じように、退場で目が合うと照れてた。
そして今回も教室で最後のホームルーム。周りはほとんど40代のお母さんだったけど私のようにきょうだいが来ているところもあって、あんまり浮かなかった。
一人ひとりのスピーチでは、高校では珍しく保護者が全員出席だったから、なんと保護者も前に出て親子で向かい合って子どもが話すという形だった。これはかなり浮いた。
弟は「特にこの場で言うことはないかなwまあ3年間ありがと」って中学の時より淡白なスピーチ。
担任や同級生達は事情を知ってるので「おいおいw」って反応だったけど弟は気にせず切り上げた。
大学入ってからも持ち前の明るさですぐに友達できて、相変わらずなっちゃんとは仲良しでウェイウェイ大学生してる。
今日というか日付的に昨日は弟の20歳の誕生日。
私は仕事、弟は大学のいつも通りの朝。起きてきた弟に「あ、誕生日おめでとう」と声をかけた。
そしたら、ん!ってぶっきらぼうに手紙を渡された。
便箋4枚にたくさんの感謝が綴られていた。
姉ちゃんいなかったら俺はたぶんしんでた何から何まで全部支えてくれてありがとう
お父さんよりお母さんより兄ちゃんより、姉ちゃんが1番強くて逞しい人間だと思うマジで1番尊敬してる
お父さんが亡くなった時も、姉ちゃんがいてくれたからお母さんも兄ちゃんも頑張って生きれたと思う
姉ちゃんおらんかったらたぶんしんでたと思う姉ちゃんはそれぐらいすごい生き物
こんなに色々あったのに全然泣かない生き物も姉ちゃんぐらいだよ無駄にプライド高くて頑固なとこはホントお父さんそっくりだよね
この辺で私はボロ泣きしたそして手紙を取り上げられた
弟は照れ臭くなったみたいでその後手紙の続きは読ませてくれないまま大学へ行きました。
夜はなっちゃんと会うからご飯いらないし帰らないと言われました。誕生日を祝ってもらっているのでしょう。
以上です。
長々とありがとうございました。弟からの手紙は10数年ぶりで
全部は読めていないけどパッと見4枚の紙にびっしりと文字が書かれていて、弟の文学面での成長を感じたのと
今まであんまり何も言われることが無かったけれどそれなりに私の思いや努力は伝わってたんだなと。